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吉屋信子の長篇小説『私は知っている』 (1957) の気になる日本語に線を引っ張ったあと [日本語]

吉屋信子 『私は知っている』(1956)
――戦後まもなくの日本語表記の参考テキストとして

 〔私的メモ。「はじめまして」のあいさつ以来何も書いていませんでした。まず、ただの粗いノートを書き留めます。最近読んだ吉屋信子の長篇小説『私は知っている』の覚え書。作品のあらすじをはじめ解説・解釈はおいおい書きます。以下の体裁も変化していくかもしれません。少し個人的なことを書くと、ebook で読書をする人をうらやましく思いつつ、自分はどうしても本に書き込みをしたり、線を引っ張ったりしながら読まずにはいられない。etext の便利なところは検索と、検索による相互参照(cross reference) の確実性の高さ(まったく確実とは言えない)だと思いますが、いったいtext から「気にいった/なった」ものを抜き書きすることでどうなるのか、ちょっと試してみたい。そんなことはインターネット外でも、単に検索機能付きのワープロ文書ファイルとして保存すれば可能なわけかもしれませんが、ブログで試してみたいのです。とりあえず、やたら時間を食うことはわかりましたがw〕
 メモ2 思い直して、あらすじの代わりに、作品の終わり近くの、主人公の新庄登世の心情に密着した地の文を引いておきます。――

 (強い女になりたい、強くなりたい!)
 登世は歯を喰いしばるようにして心で叫んだ。
 弱かつた過去、うじうじしていた過去、いつもうつむいて考えて悩んで、ふんぎりの付かなかつたじぶん。
 嘘をつき、その嘘につまずき、はては思い悩んであと先見ずに男に身をひさぎ、しかもそれにも図太く徹底し切れず、あとで肉を噛むほど後悔して、その秘密ゆえに人の顔色におびえ、眼の色におじけおののくおのれの意気地なさ!
 登世はそのじぶんにいま下る神の鞭に思い切り打たれて泣いて、おのれを浄め再生したかつた。(299頁: 以下「頁」は略)

頁依拠テキストは東方社 East Books 版 (1966) 

   メモ3 (1219記) 以下、最後まで読む人は誰もおらんと思います。読むためのものでないというのでもないのですが、あまりに不親切、あまりに長すぎます。ひまつぶしにごらんいただいてもよいのですが、むしろふとした参照の可能性のある資料と思っていただければ、と思います。 あるいはまた、私的には、そのうちわかるような記事を書いていくときの材料のようなものでもあります。

A.    今の日常的な日本語の感覚とずれることばづかい(語彙(語彙そのものが戦後一時代的なものは⇒C.)もだが、それ以上に、語法、文法、文体レベルで)
B.    ダッシュの使用法
C.    時代を感じさせる語彙
D.    カッコの使用法
E.  比喩
F.  読点の感覚
G.    語り手の視点
H.    神・宗教問題
I.    姉・成長
J.  その他、気にいった/なった文章

 

A.    今の日常的な日本語の感覚とずれることばづかい(語彙(語彙そのものが戦後一時代的なものは⇒C.)もだが、それ以上に、語法、文法、文体レベルで)
A-1  まつたく登世自身も、この事がきつかけでここの家族母子に深くなじんだ親愛感を覚えて、自由な身のこなしが出来たのである。 (45)
A-2  多くの医師は人間を知つていると自信している (60)
A-3  家庭的のあたたかさ / 家庭的の雰囲気 / 家庭的の待遇 (72, 72, 73)
A-4  「いいえ、そんな謙遜は無用です。悠子などはまあ幸福な境遇に置かれた娘ですから、よく育つて当然です――が、あなた失礼ながらさまざま不仕合せな運命に会つていらつしるのに、ほんとにすぐれた気持を持つてらつして、悠子の十倍もお偉いのですよ」 (72)
A-5  「弟さんの病気はいかがです、結核はもう不治の病いなんて古い観念でしたからね」 (72)
A-6  間借の階下の小母さんに心やすだてに(小母さん少し貸して)と時々二三百円借りるように (73)
A-7  〔じぶんがあわれに、浅ましく、また哀しく思われた。〕気のせいか、その写真を見ると、顔のなかにそうしたもたもたした思いが含まれている気がした。(75)
A-8  勤め先から帰宅の途上――宝くじ売の前を通ると、溺るる者は藁をもつかむというが、一二枚買つてもし百万円はとても、十万でも五万でも――いや一万でも当つたらと――足を止めることがあつたが――それはただ誰も描く夢で、実際はそう当らぬとした、一二枚の宝くじを買う金銭も無駄には出せぬ生活の彼女だつた。 (76)
A-9  その口紅の濃ゆい唇 (79)
A-10  いつたいこんなへたつかすの写真誰がとつたのさ (79)
A-11  「あんた、気が弱いわね、そんなじやとてもこの塩辛い人生は乗り切れないよ」 (80)
A-12  何が[sic]あつたのだ、変つたことがたいへんな事が起きたのだと――二人とも直覚した。 (89)
A-13  「あのお皿は南京赤絵、骨董品ですよ、あの時計はウエストミンスターの鐘のなるのですよ……」 (90)
A-14  また癖の衣紋をぬいて (95)
A-15  「そう、先つくぐりしちやあ困るよ、あんなところへ売り飛ばされるにしちやあ、あんたは利口過ぎるじやないか」 (98)  登世は透からあの手紙に触れられぬうちに、先くぐりして言い出して置かないと気がすまなかつたのだ。 (113)
A-16  登世は驚かされて枕元にすわつた。 (102)
A-17  感謝されながらも(遅くなるから)と出勤を気にされた彼女は、なんなら今日いちにちぐらい、小母さん夫婦への日頃の謝恩のため欠勤して看護してもと思つたが、
 「小父さんもだいぶいいんだよ、もう起きてみようかつて言つているぐらいだからね、登世ちやんいまのところ心配ないよ」
 「小母さんもそう言うので、出かけることにすると、
 「登世ちやん、すまないけれど水戸の倅へ電報で知らせて来て貰いたいから、郵便局でちよつと打つておくれな……なにもチチキトクなんて打つんじやないけれど――なんて打つたらいいんだろうね、ただ見舞いに来てほしいのさ、小父さんだつて喜こぶだろうしね」 (105-106)
A-18  奥さんの温情を利用しようとするのが、われから悲しいのだ (108)
A-19  「登世ちやん、きのうはあんな騒ぎで、あんたにも御苦労かけたから――お礼といつちやあなんだけれど、小父さんのまあ生命びろいの祝いに――うなぎ丼とつたから食べて頂戴よ――」
「まあ、すみません、そんなことして戴いて――」
 登世を恐縮させてしまう。 (109)
A-20  生活費は自炊で出来るだけ経済しないと弟の入院費にまわせぬのだ (111)
A-21  嘘とも!知らずあくまで登世を信じて喜こんでくれる小母さんの(善意)に、登世の胸がチクリと刺されて痛かつた。 (128)
A-22  藤作[sic 藤助]は独言のような、また登世にきかせるような言い方だつた。 (133)
A-23  今日のじぶんの身体は転落の門をくぐる一歩手前の身体だつた……せめてその身体の名残に、弟の病床を――そして青柳先生に会つておきたい今日だつた。 (139)
A-24  (B-12)  奥さんの怒りを含んだ顔、いつか会つた透の善良そのものの気弱な顔――が代りがわりに登世の瞼を往来した。 (140)
A-25  ものも言えず、その病室を驚かされたように見渡している姉の姿 (142)
A-25  登世は、思わず(大きなお世話よ)と言いたくなつたのを、弟の前でもはしたないと堪えて、
 「エミなんかに、あんまり恩恵をほどこされない方がいいと思うわ」
 ――みすぼらしい浴衣を弟に着せて置く不甲斐ない姉がはずかしめられた気もした。 (143)
A-26  第一、エミとの交際やめて貰えない! (144)
A-27  姉の顔が不快にゆがんだような相を洋吉は見る (144)
A-28  そりやあ、エミが不幸感にやけになつていたからだよ (146)
A-29  この洋吉の言葉が、登世をひどい不愉快へゆすぶつた。 (147)
A-30  「なに言うの――いつまで病人で一生送れはしないわ、それでは廃人生活じやないの、手術して回復するんなら、どんなことでもやるべきよ」 (148)
A-31  いままでは学校からの友だちとして、彼女の困つた娘であることは承知で、ひと通りつきあつていた。 (148)
A-32  それによつて鳴りひびくベルがこの母と息子の沈黙の家うちの空気を突然掻き乱した。 (156)
A-33  「じやあ、お母さんはぼくがもし不良青年の与太者としたら、ここから追い出してかまいつけませんか――親を失望させた幻滅させたからつて、それつきりですか」 (162)
A-34  母はあとに残したわが娘が、やがては若嫁姿をでも、その鏡にうつしてくれるかとのぞんでいたかも知れぬ。
A-35  「きむすめなんて、案外つまンないね、君はまるでデクの坊だよ、チェッ」 (167)
A-36  「え」
 不得要領に登世はこれも口のうちで消える。 (168)
A-37  (F-6)  「姉さんは、まるで此頃少し前とはちがつているんだ、あんなにしなやかな気持をしつとりと持つていたひとだのに、どんなにぼくたち過去に困つた時にも、いつも姉さんは柔らかい気持を失わないひとだつたのだ、それが此間ここへ来た時なんて、ひどくとんがつて、実にしんが強くなつているんだ、そしてなんだかせつぱつまつているひとのように、余裕のないいやなところがあるんだ」 (175)
A-38  「姉さん、あんまり苦労してゆがんじやつたのかな、楽天家のばかなわたしなんかとちがつて、根が利口だから、いざそうなると陰にこもつちまつて、ヒスの傾向帯びるのかも知れないけど――わたしも悪いんだ、洋ちやんに近づきすぎちやつて……」 (175)
A-39  「君は誰だ、失敬じゃないか、空部屋に入り込んで」 (179)
A-40  あれじや、姉さんの大切なだんなをしくじつちまうよ (181)
A-41  ――姉は秘密の結婚をしているのか! (182)
A-42  道理で此間病院へ来た時、どこかなにか姉の様子に奇妙に――何かかくしているような蔭がほの暗くまつわつているのを漠然と感じた。
 そして、いつもの柔らかい姉の態度とちがつてつけつけして苛立つていた。 (182)
A-43  洋吉は夢中で逃げ出そうとすると、はたとぶつかつたのが、十五六かと思われるおかつぱの髪になんと女学生風のセーラー姿の少女だつた。
 「うちぼらないお店よ、よつてつて飲まない、サービスいいんですのよ」
 この少女のようなものが、酒場の客引きの街頭戦にでているのだ。
 「き、きみ知らない”えくぼ”つて店、小さい酒場なんだそうだ」 (187)
A-44  「おゝ、いやだ、あんな店、おビール一本千円もぼられるわよ」 (187)
A-45  青んじよみたいな奴 (191)  岩橋家の青んじよ (195)  岩橋んちのあの人のいい青ンじよのお坊ちやん (200)
A-46  (E-50)  扉の鍵をあけると、弾丸のように部屋に転り込んだエミは、寝不足の眼をしばたたくと、
「こんなに早起きしたのは開闢以来さ、あんたの弟はまつたく人を騒がせるよ[sic]困つた結核坊やだね」 (195)
A-47  「それともあたしの手許へ置くのは不服だつていうの、そんならいつでも洋ちやん返すわよ、何もあたしだつてすき好んで病人を引取ろうつてんじやないもの……そりやあたしお互に困つた境遇だから助け合おうと思つてたし、洋ちやんのとこへだつてその意味でちよくちよく見舞に行つてるうちに、なんだか病気のくせに気ばかりあせつてる若い洋ちやんが可哀想になつちまつて、もう一人姉さんが出来たような気持にさせちやつたのがあやまちかも知れないけれど、あたし男にはかつえていないから、あの病人を相手にエロなことなんかしちやいないわよ」 (197)
A-48  語尾は笑いに紛らしながらも、はつきり釘を一本打つべきところに打つたような、エミはこうなれば、まんざらの白痴美なんてものではなく、芯は案外つよいところのある女に見えた。 (197)
A-49  いまになつて、いまになつて――何を言われようとすべては、Too L,ate [Late]! もう遅いのだ! (205)
A-50  そうした禍福の差をへだてる運命の女性をつくるのは、神のいかなる企劃なのだろう……。 (214)
A-51  おかみさんも不思議がり、下駄をぬいで中へ入つて、そこでも(奥さん)と何度も呼んで返事がないので、少しずつ奥へ入つて行つたが、いきなりたまぎる叫び声をあげた。 (217)
A-52  登世もまた(あら!)と叫んでしまつた。 (217)
A-53  人生の今日も明日もつねにそれは知らぬ月日なのだ。 (217)
A-54  「お軽くてすんだんですつて――よござんした。脳栓塞つて――」 (219)
A-55  「看護婦さんの御飯はどうします? 少しは御馳走つけなければわるいでしようね」 (223)
A-56  登世は厨で朝餉の支度をした――食堂が病室に変つたので、食事は看護婦の瀬戸さんのは応接間に外の透やじぶんは台所の隅の卓子ですますことにした。 (227)
A-57  なんと透に言えばいいのか――それでなくても身にあまる暗い秘密を秘めて、あのひとの家の屋根の下に(家政婦)として入ろうとするのさえ、罪を感じているのに……。 (231)
A-58  「そうかねえ……男子至るところに青山ありつて――古い文句があつたが、いまどきは女性いたるところにねぐらありなんだね、じやあ荷物は持つてゆけるよ、手伝つてあげるさ」 (235)
A-59  「お信心の方はお蠟を……だ、思召しでへへへ」
 と笑つて受けとり、ふところにねじ込むと、
 「ぼくはここの住人、宮川という奴です。まさか弱きあなたがトラブル(困難)に会つた時は、いつなんどきでも、快刀乱麻をたつごとくみごとに解決してあげますから、そんな時はこんな野郎でも思い出してもお損はありませんぜ」 (237)
A-60  透は四、五日の後に母の回復の希望が見出されるという、希望的観察への信頼をもつているかのようだつた。 (244)
A-61  それは透の亡き姉への感傷的の追憶がさせる幻想に過ぎないと思つた。 (246)
A-62  もう昼はとく過ぎていた。 (246)
A-63  透を助けて事務的のことが運ばれていつた (255)
A-64  透はたゆたいながら、眼に涙をいつぱいためて小石で釘の頭を軽く打つ (262)
A-65  従業員組合の組織もないほど、個人的の商会で、外交販売員などが多く、退職金もまるで雇主のおぼしめしのようなものなのかもしれぬ。 (263)
A-66   彼女は(死ぬ者貧乏)という俗な言葉を思い浮べていた。
 妹は女としてのもつとも幸運なよき良人を持ち、物質にも恵まれて心ゆたかに生活し、一子をもうけ、良人の死後も生活に支障を来さず、悠々と生活していられたのだ。
 それが、まだそれほどの年齢でもないのに、急逝してしまつてほんとにつまらない、あの人には大損だ――と考えている。[sic]  (269)
A-67  (I-18)  血がつづいた人々にかえつて冷たさを覚えるさびしさは彼を血縁から孤独感を深めた。[sic] (273)
A-68   透は母ほど全身的には信仰の境地には浸れぬが、母の死と登世を結びつけて神秘感をそこに結びつけてみたくなるのだ。 (274)
A-69  (I-21)  透は母が彼の傍を離れて数日、この満子や祐造の対立する家の中にあつて以来、すでに今まで知らなかつた、世間に塵まぶれの空気のなかに、悪戦苦闘している経験を身に受けて、俄かに彼の背骨がピンとし大人の男に彼を成長させた感じだつた。 (279) 〔態のはっきりしない翻訳調〕
A-70  「やァ、シンデレラ嬢いろいろお世話だつたな、こんど来た時もよろしく」
彼はさつさと出て行つたが、それを見送りつつ――登世はきよとんとした。祐造のにやりとした顔や言葉が気にかかつたのは、当然だつた。

シンデレラ姫……
登世はびつくりさせられた。
 有名な童話のなかの幸福な娘の名を、祐造が言つたのは、なぜか――シンデレラ姫が王子に見そめられて王宮に妃として迎えられる――それをじぶんになぞらえたのだと思うと――かつと火のように頬が燃えて、はじらつた。 (283)
A-71  これで安心して私も身が退ける……あの優しい、たしかに純情無垢の人のために値する女性があつたことが――いまの登世には大きな救いだつたのだ。 (286)
A-72  (I-24)  「姉さん、恋愛は一切を浄化するつて言うじやないか、透君と恋愛が生じたら過去は忘れて透君に対して再生の姉さんになれない」
「私――透さんに恋愛も出来ないの……」 (293)
A-73  「ど、どうしたんだ!」
リヤカーを引いて鶏の餌を買いにゆく高井がいま通りかかつて、その光景に声かけて登世と宮川の間に飛び込んだ。 (302)



B.    ダッシュの使用法
B-1  それというのも、たった一つの大事な――じぶんにとっては貴重品だった腕時計……クローム側の安ものながら時間はよく合うそれを、洋吉の発病後その費用で手離してしまったからだ。(5)〔指示代名詞「それ」(= one)や「その」(=病)〕
B-2  それで一彦はそれを調べて、今日も東京へ夕方出かけたついでにとは言え――やはりわざわざここをたずねて来たと――登世には申しわけないほど有り難かつた。 (59)
B-3  綱子と透は教会なのだと――彼女はいつか綱子の言つた通り、裏手へ回ると、裏木戸で通じる植木屋の小さい家があつた。 (68)
B-4  間借の階下の小母さんに心やすだてに(小母さん少し貸して)と時々二三百円借りるようにたやすく口に出来ぬのも――手術費の額ともなれば、安い額ではなし……ましてごく最近知り合つたこの家でその温情を利用して金銭を借りたいと申し出ることは、登世の気性では苦しく切なくどうしても言い出せないのだつた。(73)
B-5  間借の階下の小母さんが言つたように(手術費の月賦)――そんなことが許されるなら……今はただ一つその望だけだつた。 (74)
B-6  そのペンの文字など登世より下手で、男の子のような稚拙なものだつたが、つらねた言葉にいや味もなく――ことに、母が送つた方がよいというから送るなど――いうところ、いかにも未亡人育ちの(おふくろつ子)の坊ちやんのようでおかしかつた。 (75)
B-7  ――どうか彼女でないように……彼女になんのかかわりもないように――透は今こそ(神)にひざまずいて祈りたかつた。 (93)
B-8  小母さんの教えた通りお酉さま――年末には大熊手の店と人出で賑う[sic]合う大鷲神社への道の近くに、いわゆるモク屋のお婆さんの家を、登世は探し当てた。 (94)
B-9    (神)か(悪魔)かそのいずれかが、人間が生きる地上のあらゆる路に苦痛と苦悩と災厄の種子を播いて歩いている――気が登世にした。 (119)
B-10  その悪運が登世をもうなかば自暴自棄の――虚無的な娘にしてしまつた。 (120)
B-11  さつき松屋の屋上――そしておとり婆さんとの話のとりやり[sic]……と世はいよいよこれから地獄に堕落するじぶんと思うと、顔も変つていたにちがいない。 (128)
B-12  奥さんの怒りを含んだ顔、いつか会つた透の善良そのものの気弱な顔――が代りがわりに登世の瞼を往来した。 (140)
B-13  そして考え込んでいる……あの娘のことを思つていると――母は察する。 (154)
B-14  (E-87)  登世はその小母さんの夢にも知らぬ世界に、いつとき転落していた――じぶんの不甲斐なさや図太さに――そのハガキが正視出来なかつた。 (264)
B-15  登世は彼の言葉をかちんとはね返した。
 もう弱い小雀の娘であつてはならぬと、おのれに鞭打ちつつ――
 「どんな御恩があるか、どうか知らねいが、こつちは金を、金をだよ、出しているんだぜ」 (229)
B-16  だのに、じぶんだけいい気なもので、力みかえつて、その肉親愛にひとりしがみつき、進んで身を捨てて犠牲の悲壮さに酔つたのが愚かにも浅はかと――気がついたが……もう遅かつた! (202)
B-17  (E-78)  ――悪夢を見つづけていたような、このアパートから彼女は一刻も早く馳け出して[sic]ゆきたかつた。
 泥沼から這い上つて、あの聖家族の岩橋家へ――行けるじぶんがそれでやつと救われた気持で嬉しかつた。 (238)




C.    時代を感じさせる語彙
C-1  まだ瓦斯がひいてないからこういうお風呂ですが (11)
C-2  戦後のあまりに性的に乱れすぎたアプレ型にわが息子を陥し入れまいと (19)
C-3  と、もう洗つて笊に入れてある野菜を電気冷蔵庫から出してみせた。 (46)
C-4  「おい弱虫! だめじやないの折角のティーン・エイジャーをむなしく病院に費やすなんて、もつたいないよ」 (54)
C-5  父母が揃つて生きていた時は、まあ中どこの生活で子供の日を愉しく送つた覚えのある登世姉弟だつた。 (63)
C-6  植木屋のおかみさんらしいのが、浴衣地のアッパッパをきて顔を出した。 (68)
C-7  なるほどエール錠の鍵というのか、ちよつと金庫の鍵のような気がした。 (68)
C-8  まだ食器類がアルマイトの流し元に置いてあつた。 (68)
C-9  「あたいの善友を連れて来たんだよ、アルコールなんて駄目だからさ、うんと鳥の肝でも食べさせて少し精気を付けてやつてくれよ」 (77)
C-10  うちでも去年あんなインチキな無尽会社にだまされなければ少しはゆうずうしてあげられたんだけどさ (83)
C-11  「あのモク屋の慾張り婆が――おいそれと貸すかい、烏金の日歩でやつてるって聞いたがね……」 (84)
C-12  浅草近くのモクひろい(煙草の吸殻を路上からひろう)からモクネタを集めて、インデアンペーパーに巻き替えて売る、私設専売局のようなモク屋をひそかに家でして警官に踏み込まれた騒ぎから越して行つたという…… (84)
C-13  それからそら近所の赤線なんとかの特飲街へ田舎娘を世話したりしてお金をもうけてるんだつてさ (84)
C-14  けんもほろほろに追い出すわけでもなかつた (96)
C-15  わたし……特飲街なんかに行く気はありません。 (98)
C-16  そら近頃学生さんに流行のアルバイトつてのを教えてあげようと思つてさ (99)
C-17  それから、煤竹の乱れ籠が一つそこに男ものの新しい浴衣と丹前が入れてあつた。傍に萌黄唐草の風呂敷が畳んであつた。 (134)
C-18  「姉さん、そんなこと、人権問題だよ、エミの自由を迫害することは出来ないじやないか」 (148)
C-19  登世は洋吉に手をさしのべて、握手するように振つた。 (150)
C-20  「よごれやすいけれど、やつぱりセーターは白が上品でいいのね、貴族的で……」 (154)
C-21  あの娘の言うには、その与太者たちがチャリンコ――かつぱらいやすりのことですつてよ、そのチャリンコとやらを平気でやる仲間に近づいていたので、その連中がその話からヒントとやらを得て、こゝへそのなかの一人が登世さんのふうにして鍵を裏から借りて、そして…… (160)
C-22  そのアパートは朝はがたがたと騒がしく、皆出かけるのに賑やかだが、おたがい個人主義的に人のことなどかまわずさつさと駅の道へ走り出すようにしてゆくのだ。 (168)
C-23  「そこへゆくと、あなたのようなお若い女性は華やかでいいなあ、時折スマートボールじやない、スマートボーイつてのが訪問しているじやないですか、恋人でしよう羨ましいな――これも向い合いの部屋で大いに気がもめるな」 (169)
C-24  一日ぐらいぼくのいまの調子なら外出してもいいんでしよう――巣鴨の戦犯連中さえ時々外出出来るつて話ですよ (176)
C-25  浮浪者のバタヤのように芥箱の傍に立つたり、食べものの匂いのする戸口をのぞいたりしているのが、浅ましく哀れだつたが (188)
C-26  ひとたび犬のごとく追い払われまた餌を投げておいでおいでをされたからとて、尾を振つてゆくわけにはいかない――というレジスタンスを身によつて表現したかつた。 (206)
C-27  「自由結婚――いいですな、女中であろうと誰であろうとそこが封建打破の民主主義ですな」
 祐造はおもしろがつてか、透の肩を持つ。 (281)
C-28  (E-93)  「ねえ、透はほんとに仕合せ者ですよ、綺麗なお嬢さんにラブされているんだよ」
 と、登世の胸のなかへメスを刺込むように笑つて (286)


D.    カッコの使用法
D-1  父が亡くなり、姉も渡米後逝って、母一人子一人のさびしい家庭に、クリスチャンの母を持つ息子は(聖家族)として清純教育を受けていた。(19)
D-2  俗にいう(借りてきた猫)のおとなしさである。 (42)
D-3  「先生は、姉さんのことばかに褒めていたよ、実に立派な健気な姉さんだつて――(君はあんないい姉さんを持つて仕合せだ)つてお説教されちやつた」 (57)
D-4  乞食のように、なにもかも人の情にすがつていわゆる(慈善)の対象になることは登世もいやだつた。 (63)
D-5  登世は芽生えたらしいこの(恋)の芽を闘かいつまねばならぬと思つた。 (65)
D-6  (もう、今日から私は悪い女になる!)
 彼女はじぶんの運命にこれで酬いるつもりだつた。 (121)
D-7  わが悪運へ(悪)をもつて復讐してやる。
 昨日まで貴いと思い込んでいた(純情)だの(純潔)だのそんなものはじぶんには身に過ぎたぜいたく品だ、それを持つことの出来る幸福な娘は持つがいい――私はちがう。 (121)
D-8  アパートの部屋に移つた私は、もうこの部屋の(私)ではないのよ……登世は涙ぐんでこれがじぶんの最後の感傷だと思つた。 (130)
D-9  だが、この温和な――世のつねの若者よりははるかに無垢に育てたつもりのわが子が、すでに女性は(母)だけでは満足しなくなつたのだと気がつくと、綱子はさびしかつた。 (154)
D-10  登世は(え)とも(うー)とも声が出なかつた。 (174)
D-11  ――(ちがう――あのひとじやないの!)登世が言えるものならこう打消したかつた。
 ――(みず知らずの金持の息子のオンリーよ)……もしこう告白出来たら、さぞ胸がせいせいするだろう、そしてひと思いにじぶんのいじけ方を荒療治して、うみが出てさつぱりして、肝のすわつた女になれるだろうと思つた。 (201)
D-12  「基督教では別に初七日とかなんとかやかましくは言いませんが、それでも教会の方たちがその日、お母さんの追悼会を教会内で開いて集まつて下さると、言つてますし、ぼくはつまらぬ儀式や供養に金を使うより、母のふだんの気持からも、もつと有益に――こんど教会の婦人会でやりがたつている、母も勿論その発起人だつた(働く母の為の託児所)の建設費に、母の記念として、まとまつたものを寄付するつもりです」 (279)
D-13  「ええ、行つてらつしやい――でもね、肺病の病院へ行つて結核菌をここへ運んで来られては困るのよ、その点私は心配してますよ、いずれ考えなくてはね……女中さんは健康第一ですからね、あなたはその病気の血統引いてはいないのだろうかねえ」
登世は満子のいやみには、もう免疫になつていた。だがたしかにこの家にいることも(いずれ考えねばならぬ)のだつた。 (287)
D-14  「姉さんが見えたから、君もさびしくないだろ、これで失敬するよ、ぼくは外の部屋を慰問にゆく」
 高井は寝台の端から立ち上り、登世にも(ではまた)と首をさげて、出て行つた。 (289)


E.  比喩
E-0  天のナイフ (5: 第1章タイトル)  黒い幕を張つたような空に月も星もないが、時々ピカッと稲妻が天のナイフの一瞬きらめくごとく光つてすぐ消えた。 (5)
E-1  そこへ一羽の濡れた紅雀が飛び込んだようにあの見知らぬ娘が……。 (20)
E-2  その青蔦に覆われた扉脇の壁に呼鈴の白いポチが乳首のようにわずかにのぞいているのを登世が押したが、なかはひつそりしている。 (56)
E-3  この賑やかなジャズレコードのような見舞い客 (57)
E-4  見るからにあたたかい心の窓のような優しい純な眼 (59)
E-5  葡萄に種子のあるごとく、人の子には心がある……ですよ、あのエホバの園はその肉体と心の両面に当つて療養とやすらぎを与えたい目的なんです (61)
E-6  一彦の思いやりをこめる眼が――登世には生ける神の瞳のようにうつつた。 (62)
E-7  もし出来ることなら、地の果までもこの人とならんで歩きつゞけたかつた。 (65)  Cf. E-32
E-8  トレアドルパンツの勇ましい姿でエミは胸を張つて、およそこの世に怖ろしいものなどない様子で、傷ついた子羊のごとくしょんぼり歩く登世とは大違いだつた。 (76)
E-9  よくこんな狭いマッチ箱のようななかで商売が出来ると呆れるほどの酒場だつた。〔……〕その前の小椅子が五つ六つ、もうそれだけ人間が入れば、張り裂けそうなところである。 (77)
E-10  そうした青年たちには、教会の娘たちの眼が集まつた。そして彼たちと彼女たちは華やかに若さに溢れて弾力に満ちて青春の光を放つていた。 (88)
E-11  彼女はこうなると、なんにも言えない、胸が一枚の板のようにこわばるばかりだ。 (96)
E-12  そしてさ、借金が雪だるまみたいに利子にころがつて大きくなつて、首がまわらなくなつて自殺でもしなくちやあ追いつかなくなるのよ (96)
E-13  そのお婆さんの細く釣上つた眼でじぶんの身体中をなめまわされている感覚だつた。 (96)
E-14  まるでさつきのお婆さんに生肝を抜かれたような思いだつた。 (101)
E-15  小母さんにそう言われる葉唐辛子の一束が思いがけぬ運命の象徴みたいに登世にはあわれに見える。 (103) 〔「もつたいないから、登世ちやんお弁当のおかずに使つておくれよ。生醤油で煮しめるとぴりつとしておいしいよ、いつまでももつしね……若いひとはあんまり好かないかも知れないけれど……」という小母さんのことばに続く地の文〕
E-16  登世は地獄に落されたように――いまじぶんの身体が床の下へめいり込みそうだつた。 (116)
E-17  登世はものにつまずき倒れる気持だつた。 (117)
E-18  登世はついに泣き伏して、その会議室の卓子の端に首を折つたように伏せた。 (118)
E-19  (悪運よ、もうたくさんだ、おまえはどこまでこの一人の娘につきまとうの)
登世はじぶんの影身につきまとう、黒い悪運の影にこの言葉を投げつけたかつた。
 今日透から聞いたような事件がなくても、もう身にあまるほどの苦しみの荷を負わされている彼女だつた。
 それでも、まだ足りずあとからあとからよくも悪運の魔女は白い歯をむき登世を追かけて来る……。 (120)
E-20  その彼の頭の中央がコンパスでほどよく輪を描いたごとく禿げている。 (122)
E-21  いい話のはずはないのに――彼女はもう哀しい嘘のきものを着つづけねばならない女だつた。 (128)
E-22  だが、彼女はすでに悪魔に身を売り、悪に汚れた華となる決心をしてしまつたのだ。 (135)
E-23  藤助は若旦那とそのオンリーの娼婦との間にこうして一線を劃させ、飼主の雄とそれに飼われる雌とに封建制を確立させる。 (137)
E-24  まるで一つの商品の仕入れが完了したような顔つきで (137)
E-25  その部屋をせばめる大きな寝台が、毒々しい魔物のようにどさりと据えてあつた。
じぶんの荷物が放り込んだように、ころがつていた。 (138)
E-26  それは藤助の次から次に吐き散らして行つたあのかずかずの言葉のしぶきに顔の皮膚がよごれている気がしたからだ。 (139)
E-27  ハンドバッグのなかには、じぶんの血と肉に替えたと同じ金がいまある。 (139)
E-28  弟に彼女は(恋愛)の薬を注射しようと――いなすでにそれを服薬せしめていると思わずにはいられない。 (143)
E-29  あのひとの不幸な女の心の底にはだれも知らない純情が隠されていたんだよ。 (143)
E-30  洋吉は姉の言葉が一つ一つ小石になつてじぶんが打たれているようだつた。 (146)
E-31  (心の灯)――それはエミの洋吉への恋なのだ、その心の灯は洋吉の胸にも反射して、彼もエミの愛情を心の灯としているとは (147)
E-32  このまま、どこかへ行つてしまいたかつた。地球の果へでも……。 Cf. E-7
E-33  ――屠所の羊という古びた形容詞があるのを登世は思い出した。まさにじぶんはいまや処女の屠所へ向うのだ。 (151)
E-34  透はこの日頃の暗い谷間から救われた感じで生き返つたようだつた。 (160)
E-35  「お母さん、聞きましたか、漁夫が地上の人間のあさましさを天女に恥じているのを……」
 「おや、透さんあなたは――まあ、あの登世という娘を天女だと思つているの、えつ」 (163)
E-36  (G-7)  登世はいつとき日曜日ごとにわが家に現われる天女の感があつた。だがその天女は案外食わせ者だつたのだ。彼女は堕ちたる天女になつてしまつた。 (164)
E-37  (F-5)  世の埃にまぶれたような、この男には何もかも見通しという感じだつた。 (169)
E-38  登世は胸が一枚の板になつてゆくようにこわばるのだ。 (171)
E-39  もし出来たら弟の精神の手術もこの人に縋つてみたい……。 (174)
E-40  電気に打たれたように――洋吉は蒼ざめた。そして全身悪寒を感じ発熱したように、精神が掻きまわされ大きな衝動を受けた。 (178)
E-41  ただ不幸にも人間をむしばむ病菌を有す運命の十字架を負わされた者なのだ。 (179)
E-42  暮れかゝると、俄にどつと暗くなる秋の黄昏(たそがれ)が部屋のなかにさびしくこもつているだけだつた。 (182)
E-43  だがそんなことは平気な厚顔無恥という名のこの男は、じぶんが巻き起してゆく他人への悲劇が面白くつて仕方がないという興味に熱を帯びている様子だ。 (183)
E-44  秋の夜空にあくどい原色のネオンのさまざまが洋吉に血の渦巻のように見えて、すつかり頭の芯が疲れしびれてしまう。 (186)
E-45  洋吉が入つて行つた”えくぼ”の店先は、中からガンガンと頭の痛くなるような音楽が聞こえ、人の会話というよりもどなり合つているような声と、煙草の煙のうずまいた小さな穴のようだつた。 (188)
E-46  彼女〔エミ〕は弾んだゴム鞠の飛び上るようにコック場へ駈け込んできた。 (189)
E-47  あんたつて困つた大きなベビちやんだわね (190)
E-48  我あやまてり――今は元に返らぬ女の身体となつて、そして白々とした慚愧の苦痛が秋風のように身内を吹きまくる。 (194)
E-49  今朝という今朝は、彼女〔エミ〕の声が天使のように響いた (194-195)
E-50  扉の鍵をあけると、弾丸のように部屋に転り込んだエミは、寝不足の眼をしばたたくと、
「こんなに早起きしたのは開闢以来さ、あんたの弟はまつたく人を騒がせるよ[sic]困つた結核坊やだね」 (195)
E-51  フィルムの回転するように、登世の頭に描かれてゆく (197)
E-52  (A-48)  語尾は笑いに紛らしながらも、はつきり釘を一本打つべきところに打つたような、エミはこうなれば、まんざらの白痴美なんてものではなく、芯は案外つよいところのある女に見えた。 (197)
E-53  エミの声には、がらつぱちながら真情が流れている気がして、登世が彼女を見なおすように見詰めると――彼女の服の胸には赤い羽根が二本も重ねて、アクセサリーになつて挿されている。 (197-198)
E-54  (H-11)  この青年の日頃忘れぬ眉目が神の啓示の如く眼の中に入つたのだから、彼は一切を忘れて登世の傍に走り寄った。 (204)
E-55  この美しい胡蝶をとり逃したら二度とは捕まらぬと、昆虫網で追いかけるように透は走り寄つたのである。 (204)
E-56  なにもこの人に悪いことをしているわけではないが……だが、エミがこの透をあのアパートに女を置く人間と信じ切つているのに、否定もせずに自分の保護色としてあいまいにしておいたことは何といつても登世の気が咎めるのだ。 (204)
E-57  そうつぶやく彼女の顔は白蠟のように冷たかつた。 (205)
E-58  すでにじぶんは汚れた女になり、そして弟は療養所を脱出し……なにもかも運命は狂いぬいてしまつたのだ (206)
E-59  (H-12)  性欲の対象の道具にだけ、じぶんを金でしばつて置くあの青年にくらべれば、同じ男性でも、悪魔と天使の差がある気がした。 (206-207)
E-60  生涯われ一人秘めて語らず、みずから悲しみ痛んで負いゆく十字架のはずだ。 (211)
E-61  登世はそこから秋風に身を押しだされるように歩く。 (211)
E-62  その人の結婚!
 登世には眼の前にかみなりの落ちたような驚きだつた。 (212)
E-63  ――わが恋ここに終りぬ……というより、その片恋の芽は枯れる運命だつたのだ。 (213)
E-64  登世はこの世のなかの塵芥のなかに置き捨てられた気がした。 (214)
E-65  彼女はこんな思いを抱いて乗つたバスがこのまま地の果まで走りぬいて海に飛び込んでくれたらいいとさえ思つた。 (214)
E-66  登世はそんな思いを稲妻のように頭にひらめかせながら (217)
E-67  (F-8)  それまで気の抜けたように、ぼんやりしていたおかみさんは登世の声に、はつとバネ仕かけの人形めいて飛び出して行つた。 (218)
E-68  あのアパート――考えればぞつとする思い出のあの部屋から――立ち退いて此処の母と息子の基督教信者の聖家族のなかに、女中役として加われたら、救いの宿である。 (222)
E-69  この汚れの泥土から這い出ようとする女 (223)
E-70  じぶんの蒔いた種子はじぶんが刈りとるより外仕方がない。 (225)
E-70  油断をすれば、ふいとまたわが家から飛んで去る美しい小鳥のような彼女を、こんどこそ――この機会に永久につかまえたかつた。 (226)
E-71  登世はすでにそう決心しているのだ、あの汚辱の巣から一日も早く逃れることを――その点では綱子の発病はわが救いになつた気さえしている。 (227)
E-72  たとえ、この家のなかに必要とされて招かれずとも、野原の大土管の下をルンペンのようにねぐら〔傍点〕としてもかまわぬから、一刻も早くあのアパートから逃れたかつた。 (227)
E-73  この男〔藤助〕の前では、悲しいことに登世は一羽のあわれな雀のようだつた。 (228)
E-74  新しい生活へ飛び込むために、過去の亡霊じみてそこに居る男と闘わねばならぬと決心した。 (229)
E-75  もう弱い小雀の娘であつてはならぬと、おのれに鞭打ちつつ (229)
E-76  女の(処女)を金銭に替えさせて、しかもそれを年期奉公のように、期限が未完了だから契約手付金を返せという藤助の言葉に、登世は肝のつぶれる思いだつた。 (229)
E-77  この男〔宮川〕は猫のように、いつのまにか必ず登世の事件にまつわるように、現われてくる男だ。 (231)
E-78  ――悪夢を見つづけていたような、このアパートから彼女は一刻も早く馳け出して[sic]ゆきたかつた。
 泥沼から這い上つて、あの聖家族の岩橋家へ――行けるじぶんがそれでやつと救われた気持で嬉しかつた。 (238)
E-79  だから、台風が東京の空へ接近するかも知れぬなどということを知らなかつた。じぶんの身辺を襲う台風に気を取られつづけていたのだ。 (240)
E-80  登世は電気に打たれたようだつた。 (242)
E-81  ぼんやりと――それこそまつたく魂の一瞬ぬけた形で登世は車を風に吹かれつつ見送つた。 (243)
E-82  秋のながい夜の灯は、もう近くのどこの家にも消えて――闇の真夜中となつたが、今宵から喪にこもるこの家の通夜の灯は、地上のさびしい星のようにいつまでもついていた。 (254)
E-83  登世はこの家へ夏のひとよ馳け込んで以来の綱子や透とのつながりと、自分の運命の変り方をしみじみとその夜、綱子の亡骸を囲むなかにあつて思つた。
そしてはからずも、綱子に天国の幻想を与える鍵とじぶんがなつた不思議さに心打たれた。 (254)
E-84  綱子が永遠に生き返らぬように――登世もおのれのあやまちの生涯のしみ〔傍点〕は消せぬと思つた。 (255)
E-85  伯母の言葉には、いやみな針があつた。 (257)
E-86  大嵐の跡のような家のなかを登世は一人さびしく片付けていると (263)
E-87  登世はその小母さんの夢にも知らぬ世界に、いつとき転落していた――じぶんの不甲斐なさや図太さに――そのハガキが正視出来なかつた。 (264)
E-88  ここでもしじぶんを洗い浄めるような生活が出来るなら――心やましいこともなく水戸の小母さんへたよりも出来る。 (264)
E-89  「そりやあ、奥さんつて家政婦みたいなもンさ――わたし餞別の代りにこれ貰う」
 エミは果物籠から柿を三つほど取つて半巾に包んだ。 (268)
E-90  弟は、あの男を――エミの感ちがいしている[sic]と同じように、やはり透だと思い込んでいるのだ――と知つた時、その場のがれの安心はしたが、心のなかに苦い濁つた澱がよどんで、身が縮むようだつた。 (277)
E-91  「ぼくも、今まで母があんまり子供扱いして温室に入れて置かれたのですが、いまはいやでも外に放り出されて、霜にも会うつもりで強い植物になるんです――登世さん、だからぼくはじぶんの意志をはつきりさせたんです、もつともあなたの了解は得ませんでしたが……」 (283)
E-92  じぶんのあやまちはじぶんで刈りとるより仕方がない、登世は覚悟をしていた。
何も知らぬ透の純情を利用して、彼の妻となり、それこそシンデレラになる気はなかつた。それは、綱子に対し透の為にも、空巣ねらいよりもつと怖ろしい罪だと思つた。〔……〕
透のみならず、誰に向つても、わが恥ずべき過去を打明けるのは、死にまさる苦しみだつた。 (285)
E-93  「ねえ、透はほんとに仕合せ者ですよ、綺麗なお嬢さんにラブされているんだよ」
 と、登世の胸のなかへメスを刺込むように笑つて (286)
E-94  「姉さん、岩橋の家へ行つて幸福なの?」
 と、鋭どい矢を放つたように問うた。 (290)
E-95  「そうか――やつぱり、ぼくが疑つていたようなんだね!」
洋吉の吐くような声だつた。
神 の 鞭

洋吉が疑つていたという言葉は、登世の胸を刺した。 (290-291)
E-96  どれほど時間が経つたか――沈黙のままこの姉弟はじつと動かずに居た。
 ――天知る地知る……弟もあざむき切れぬのは天のくだした罰だと、登世は神の見えざる鞭のぴゅうんと虚空を打つてわが身を打つのを知つた。 (292)
E-97  「やがてその養鶏場はおいおい拡張させて、そのうちに温室もつくり花も栽培して切花や鉢植ものを市場に出す――そこにこの療養所を出た人たちが男女とも健康に適する職場を得て生活する……生を愉しみつつ――こんな風な理想をぼくたちは高井君と計画しているのです」
 「いいことですのね、先生」
 登世は、感動して答えた刹那、胸の底に――(じぶんも洋吉と共に、養鶏や花づくりに働かせて貰えたら)と言う希望が強く湧き上った。 (295)
E-98  もう、そこまで一彦が察しているのなら、この人に向つて、いつそ何もかも打明けるべきではないか――この上この人にまで――じぶんたち姉弟のいまは天地に唯一人の救助者にまで、口をかたく閉じてかたくなに秘密をひたかくしには出来ない――登世は何かに押されるように口を開いた。 (297)
E-99  ――一彦は登世の気持を単なる卑下と思い込んでいる――登世の犯したあやまちを見透すには、このひとはあまりに、眼の前の気の毒な孤児の娘に哀憐の優しさを持つていた。
 いつそ、あの怖ろしい暗い淵に沈んだ日のことを告白しようと思つた登世だつたが、やはりその勇気がなかつた。
 かつて、ひそかに恋しい異性として心に宿つたそのひとの前で、どうしても告白しかねる登世だつた。 (298)
E-100  登世の眼に、彼の顔がスクリーンの上の大写しのように、ひろがつて見えた。 (300)
E-101  登世はもし人間が石に化せるものなら、彼の前で石になつてしまいたかつた。 (300)
E-102  宮川は猫が鼠をつかまえて、その弱者をゆつくりと爪で弄ぶようにからかいたがつている。 (300)
E-103  「なんでも言つて下さい、もうあんたなぞ怖ろしくない!」
 登世は叫んだ。
 「な、なに?」
 不意に足もとをすくわれたに似たうろたえ方で彼は毒気を抜かれた形だつた。 (301)
E-104  「こ、この方になんでも話して下さい、私の言えなかつたことを、このひとに!」
 登世は宮川に向つて叫ぶなり、高井の腕のなかに、気を失つたごとく倒れた。 (302)

F.  読点の感覚
F-1  登世にはそれが中学校でいつしよのクラスだつた友だちの菊川エミがひどくふけた顔で寝ているのだとやつとわかつた。 (25)
F-2  そうした人々によつて、うす気味わるくなつたこの店を登世は出ようと(エミちやん御馳走さま)と言つて腰をあげた。 (82)
F-3  「登世さんから、この家へ日曜日に自由に出入り出来る話を聞いてその上、応接間に時計やお皿が飾つてある前に登世さんが立つている写真――そら透さんあなたがいつかカメラで撮したあれを、見せられたりしたんで、うつかりその話をじぶんのつきあつている与太者のグループにしやべつた覚えがあるんだつて……どこやらの焼鳥屋でとか……それで――あの娘の言うには、その与太者たちがチャリンコ――かつぱらいやすりのことですつてよ、そのチャリンコとやらを平気でやる仲間に近づいていたので、その連中がその話からヒントとやらを得て、こゝへそのなかの一人が登世さんのふうにして鍵を裏から借りて、そして…… (160)
F-4  (C-23)  「そこへゆくと、あなたのようなお若い女性は華やかでいいなあ、時折スマートボールじやない、スマートボーイつてのが訪問しているじやないですか、恋人でしよう羨ましいな――これも向い合いの部屋で大いに気がもめるな」 (169)
F-5  世の埃にまぶれたような、この男には何もかも見通しという感じだつた。 (169)
F-6  「姉さんは、まるで此頃少し前とはちがつているんだ、あんなにしなやかな気持をしつとりと持つていたひとだのに、どんなにぼくたち過去に困つた時にも、いつも姉さんは柔らかい気持を失わないひとだつたのだ、それが此間ここへ来た時なんて、ひどくとんがつて、実にしんが強くなつているんだ、そしてなんだかせつぱつまつているひとのように、余裕のないいやなところがあるんだ」 (175)
F-7  (A-46)  (E-50)  扉の鍵をあけると、弾丸のように部屋に転り込んだエミは、寝不足の眼をしばたたくと、
「こんなに早起きしたのは開闢以来さ、あんたの弟はまつたく人を騒がせるよ[sic]困つた結核坊やだね」
と、いつもの陽気な笑い方をして、部屋を見廻し、
「あーら、素的なダブルベッドじゃないか、なあるほど、これじや洋公、興奮して、姉さんに男が出来たとやきもち焼くのも無理がないよ」
と、いち早くベッドに腰を下して、
「凄いスプリングだね、アメ公だつてこんないいのは持ち込まないよ」 (195)
F-8  (E-67)  それまで気の抜けたように、ぼんやりしていたおかみさんは登世の声に、はつとバネ仕かけの人形めいて飛び出して行つた。 (218)
F-9  それはもう中年のひとで、くだけたもの馴れたじみなひとだつた。 (223)
F-10  (E-78)  ――悪夢を見つづけていたような、このアパートから彼女は一刻も早く馳け出して[sic]ゆきたかつた。
 泥沼から這い上つて、あの聖家族の岩橋家へ――行けるじぶんがそれでやつと救われた気持で嬉しかつた。 (238)



G.    語り手の視点
G-1  戸外にはあの男の亡霊(?)が待つているかも知れぬ……。(16)
G-2  この世相で女の夜道は危険がともないやすい。 (35)
G-3  岩橋綱子が教会から洋傘を片手にかざし、聖書と讃美歌の袱紗包を持つて急ぎ足にわが家に帰ると玄関先に此の間登世に(これはお使いなさいよ)と贈つた亡き娘の白靴が脱いであるので、ああもう来ていると思つた。 (43) 〔綱子の名前は地の文で突然あらわれる〕
G-4  ――もうたくさんだ、登世はこれ以上このお婆さんからその不思議(?)なアルバイトの就職口について聞きたくなかつた。 (100)
G-5  「新庄登世さんを呼んで戴きたいんですが、ぼくは岩橋です」 (111)
G-6  (B-11)  さつき松屋の屋上――そしておとり婆さんとの話のとりやり[sic]……と世はいよいよこれから地獄に堕落するじぶんと思うと、顔も変つていたにちがいない。 (128)
G-7  登世はいつとき日曜日ごとにわが家に現われる天女の感があつた。だがその天女は案外食わせ者だつたのだ。彼女は堕ちたる天女になつてしまつた。 (164)
G-8  洋吉はかつとした。じぶんはなるほど結核患者に相違ない、しかしそれは恥ずべき罪悪を犯した悪人というわけではなく、ただ不幸にも人間をむしばむ病菌を有す運命の十字架を負わされた者なのだ。
 だのに、いまじぶんの眼の前に突立ち人をみ下した態度で高慢の顔つきで、まるで乞食でも追い払う調子でものを言う青年に烈しい憎悪と反感を燃やさずにはいられなかつた。 (179)
G-9  青年は洋吉の態度に彼の自尊心らしいものか、思い上つた精神かともかくわが尊厳を傷つけられたのか、これがむきになつて不機嫌にしかもあくまで冷笑気分だつた。 (179-180)
G-10  青年はこのいきり立つている肺患者の若者をこれ以上、怒らせるのは不利益だと思いなおしたのか、それとも自分の専属の女の弟をむげにも叱り飛ばせぬと思つたか――ともかく前よりも言葉も柔らげて来たが、洋吉を冷然と見くだしている態度は変らなかつた。 (180)
G-11  登世はそんな男の粘つこい言葉が耳に入つたか入らぬか――闇のなかの畳に突伏していた。 (185)
G-12  (E-48)  我あやまてり――今は元に返らぬ女の身体となつて、そして白々とした慚愧の苦痛が秋風のように身内を吹きまくる。 (194)
G-13  エミは洋吉のことよりもまずそれを言いたいらしかつた。 (195)
G-14  さつきからエミがゆうゆうと落着いているところをみると、洋吉が彼女の手許に保護(?)されているということは、登世にもほぼ想像された。 (196)
G-15  フフフと笑うエミの言葉の底には、じぶんも登世と洋吉の間に入つた他人としての――登世へのあてつけも含んでいるかも知れぬ。 (202)
G-16  それも岩橋夫人の自己満足に過ぎないのではないか!
 登世はひねくれて皮肉に考えずにはいられない。 (206)
G-17  じぶんを凌辱しようと暴力を振つた男を殺した(?)と思つたときの恐怖……そして稲妻の光のなかに逃げ去つたじぶん……。 (211)
G-18  「なんでもいいのよ、お茶漬で――早くして下さいよ。家政婦さん」
 追いかけるように、満子の押しつける声がした。 (258)
G-19  ――そこへあたふたと玄関先へ飛び込むようにして入つた小柄なちょびひげを鼻下に生やした男があつた。
 「やア、間に合つてよかつた、なにしろ旅行中なんで、電報を遅れて見ちやつてな」
 その男はそう言いながら、透の傍へよると、そつと小声で、
 「なにしろ慌てて出て来たんで、着のみきのままさ――透、お父さんのモーニングがまだとつてあつたら、ちよつと貸してくれんか」
 ――それは透の父の従兄弟の祐造だつた。
 「祐造さん、わたしがいまさがしてあげましよう――少しは身なりもよくして出て下さらないと、故人の名誉にかかわりますからね」
 満子がねつちりと言つて、有本を連れて階上へあがつた。 (262)
G-20  (A-71)  これで安心して私も身が退ける……あの優しい、たしかに純情無垢の人のために値する女性があつたことが――いまの登世には大きな救いだつたのだ。 (286)  〔透は純情無垢ではない〕


H.    神・宗教問題
H-1  「私はあなたがなんだか悠子の妹になつて現われたような気がいたしますよ、それこそ神の御恩寵の御手が……」 (47)
H-2  「万能の神よ、あなたの限りなき御恩寵はわたくしの家庭に今日の安息日に一人の客を迎えさせて下さいました。そしていま愉しく食事を戴きますことを感謝いたします、どうぞわたくしどもの新しき友、この登世さんの上に神の啓示をお与え下さいまして、彼女を励まして下さいませ、またその弟さんの病床に力強き慰めをお恵み下さいませ……」 (48)
H-3  登世はあの岩橋家の奥さんがクリスチャンの精神を生活に移し得ていればこそ、じぶんのような貧しい娘をあたたかい心で迎え入れてくれるのだ――と、その点から宗教が人間に善い影響を与えることだけは確証を得た気がしている。 (50)
H-4  一彦の思いやりをこめる眼が――登世には生ける神の瞳のようにうつつた。 (62)
H-5  彼女こそ神が与え給うた、ただ一人の愛し得る女性だ。〔……〕その彼は日曜日に天使のごとく訪れる彼にとつての(恋人)を待ちかねていた。〔……〕教会の説教も讃美歌の合唱の間も、たえず透の胸を占めていたのは(神)ではなく、一人の娘のことだつた。 (88-89)
H-6  ――どうか彼女でないように……彼女になんのかかわりもないように――透は今こそ(神)にひざまずいて祈りたかつた。 (93)
H-7  「それを母はこういうんです。クリスチャンとして、人を罪に陥し入れたくない、要するにじぶんの不徳で、あなたを神の愛によつて導く力が足りなかつたからだと――その罪を憎んでその人を憎ます[sic]とかで警察沙汰にされたくないと言うんです――そういう気持はいかにも母らしいんで、ぼくもなんとも文句が付けられないんです」 (117)
H-8  会議室の壁には、嬰児キリストを抱くマリヤの泰西名画の複写の額が右手にかかつている。
 十字架についたキリストの金色の小さい像が左手にかけてある。
 その像のキリストは、いま泣いている哀れな娘を見おろしている。
 描かれたマリア[sic]の姿もキリストの像も、それが絵であり金属の像である限り、生きて苦しむ人間に救いの手は差しのべられるはずがない。
 人間を救う者はやはり人間より外にないということを、その宗教画と聖像が教えているかのように……。 (118)
H-9  (神)か(悪魔)かそのいずれかが、人間が生きる地上のあらゆる路に苦痛と苦悩と災厄の種子を播いて歩いている――気が登世にした。 (119)
H-10  「あのひとに、あんなことをさせ、私たちの好意を裏切らせたのは、やはりお母さんの力が足りなかつたのね、神の前にお詫びしたいとは思つているのよ」 (164)
H-11  この青年の日頃忘れぬ眉目が神の啓示の如く眼の中に入つたのだから、彼は一切を忘れて登世の傍に走り寄った。 (204)
H-12  性欲の対象の道具にだけ、じぶんを金でしばつて置くあの青年にくらべれば、同じ男性でも、悪魔と天使の差がある気がした。 (206-207)
H-13  ゆきずりの男に身を踏みにじられたのは悲しい災厄だ。だがじぶんの決心と意志で、金銭にわが肉体を替えたのは、これは偶然の与えた災厄とは言えない、すべては自分の責任だ。
 生涯われ一人秘めて語らず、みずから悲しみ負いゆく十字架のはずだ。
 今日、岩橋夫人に会うとすれば夫人の前で恩人の家の空巣ねらいの疑いの晴れた、さわやかな身として立ち、むしろ夫人があやまるにちがいない。
 けれども――夫人の知らぬもう一つの(悪)をすでに犯している女となつているのだ。
 空巣ねらいの盗みと、身をひさいだのと、どつちを神さまは罪重しと見られるだろう……。
 登世は神にきけたら泣いてききたかつた。 (211)
H-14  あの青柳先生の奥さんになり得る幸福な女性もあれば、またじぶんのような娘もいる。
 そうした禍福の差をへだてる運命の女性をつくるのは、神のいかなる企劃なのだろう……。 (214)
H-15  あのひとがその母に付いていてくれる――どれほどたのもしい気がしたか知れぬ。
今日、偶然清瀬の駅頭で彼女の姿を見つけて、話したことがよかつた、ほんとによかつたと――その偶然に感謝したかつた。
 だが、その登世がじぶんのすすめに従つて久しぶりで訪れた日母が急病を起したのも皮肉のように、また神に結びつければそれも一種の啓示の気もした。 (219)
H-16  その写真のおもかげの智的な眼が登世を見おろして、こう無言のうちに何かを示しているようだつた。
 (あなたは、いつか此処へ来たときの娘とちがつて、よごれているのね――透は知らないでも、天の霊になつている私にはわかるのよ) (224)
H-17  この男に義侠心があるとは、神も知らなかつたかもしれぬ。 (232)
H-18  あの時は、汚れなき娘だつた・・・・・・だがいまの身体に、この家の亡き娘の衣類をまとうのは、もし神というものがほんとにあるならなんと見られるか・・・・・・そら怖ろしかつた。 (244)
H-19  仕方がないというよりは、或はそれこそ彼にとつて、登世に接近し相寄ることの出来る神の授けた機会でもあつた。 (247)
H-20  「母はあれで孤独なたちでしてね、教会のひとたちとも、教会で顔を合わせるだけで、きわめて淡々としていましたし・・・・・・たゞ、神イエスともつとも親しければ、それでさびしくないという生活でしたから・・・・・・」
 それだけに、綱子の信仰は彼女の全生活を支えていて、周囲の現実には狭くうとかつたのか・・・・・・それが単純にじぶんのような娘を気に入れば愛して家に招き、また空巣ねらいの疑いを持てば、いちずに怒つてしまう――という風だつたのだと登世にも、いまにして綱子夫人の一本気がよく呑み込めた。 (247-248)
H-21  病人はときどきうわ言をもらした。ややもつれる舌で・・・・・・。
「・・・・・・天国は近づいたのよ・・・・・・」 (248)
H-22  「母は天国を信じていますから、むしろ病人の方が落着いているでしようが・・・・・・」
 母ほど素直に天国を信じれぬ彼は、母をこの地上で失うことは一大打撃なのだ。 (248)
H-23  「ち、ちがいます、わたくし登世です」
 登世はこう小声で言つたが、その声は病人の耳になど伝わらぬ。
 「や、やつぱり天国はあつたのねえ、悠子は・・・・・・天国でお母さんをそうして待つていてくれたの・・・[・・・]」
 綱子の朦朧とした意識は、すでにこの世を天国としていた。
 病める彼女は、いまじぶんの霊魂が天国に昇つて、亡き娘とめぐり会つたと――その顔には烈しい歓喜の表情さえ浮かんだ。 (249-250)
H-24  そして、彼女はおぼろげに意識がついても、精神もうろうとして枕もとの登世の姿を悠子が天国に存在する姿に再会したと思つているのだ。
 そんな風では――綱子の病状はまだ混沌としているのだとわかつて、悲しかつた。
 「悠子・・・・・・悠子・・・・・・」
 と唇をおののかせる。
 「ああ、天、天国はやつぱりあつたのねえ・・・・・・」
 透も登世もしいんとしてしまつた。
 「悠子・・・・・・おまえと母さんは、ここで、え、えいえんに生きられるのだねえ・・・・・・」
 病人の声は、ほそぼそと絶え入りそうで息苦しげだつたが、その顔にはやすらかな歓喜の表情がますます盛り上つてゆく。
 「・・・・・・悠子・・・・・・」
 病人はそうまた叫ぶと、絶対安静にと寝せられている身体を無理に動かして、そしてろくにまだ動けぬような手を、枕もとの登世の方へさしのべようとあせるのだつた。
 「いけない。お母さん、動いちや・・・・・・」
 透は思わず声を張つて、母の身体をおさえようとした。
 「・・・・・・・・・・・・」
 なにか、かすかに――ほのかに病人の唇が動いたが、声はききとれなかつた。
 病人の手はそのままがつくりと止つた。 (250-251)
H-25  医師は二人とも呼ばれた。教会の信者の博士も馳け付けて来られた。
 だが、綱子は基督教徒の言葉に従えば昇天していたのである。 (252)
H-26   「ゆるして下さい・・・・・・お母様はわたくしをあなたとまちがえて・・・・・・おなくなりになりました」
 そうつぶやきつつ、眼を閉じうなだれているうちに、彼女はわが身が浄まつてゆく気がした。
H-27  ――もし綱子の信じていたように、人間の死後の霊魂が存在するなら、その悠子の霊魂がじぶんに乗り移つて、この登世の過去を抹殺して、新しい新しい身体にしてほしかつた。
彼女はそれを切に願つた。 (252-253)
H-28  「お線香あげんと、なんだか仏さまになられたようでない気がしますけんど――耶蘇教じやそれが出来ませんからね」
 植木屋のおかみさんはもの足りなそうだつた。 (254)
H-29  階下からは通夜のひとの讃美歌が聴えてくる・・・・・・。
主よみもとに近づかん・・・・・・のぼる道は十字架にありとも・・・・・・
 寝台に身を置くと、いちどに疲れが出て、がつくりとして、頭がぼうとした。
 その耳に――ゆめのように――遠い潮騒のように歌声がひびいてつづく。
 うつしよをばはなれて天かける日・・・・・・ 
 ・・・・・・みもとにゆき主のみかおをあおぎみん・・・・・・
 登世はその歌を訊きつつ・・・・・・じぶんになんの信仰もないのがさびしかつた。
 異邦人のようにその歌声をきいて居ねばならぬ、神と天国と死後の霊魂の存在を信じて去つた綱子夫人は幸福だと思つた。
 登世もまた天国があつてほしいと考えた。
 此の世で不幸な人、貧しい人、病苦の人、哀れな人、生まれながらにして不具の人・・・・・・それらの不運な人々のために、もし天国でもなければあまりに不公平だと思つた。
 そして、じぶんもまたその不運な星を追う女だと思うと、天国があるならいまにも死んで、そこに復活したいと思つた。 (255-256)
H-30  「そりやあ、綱子はクリスチャンですから、神は愛なりで誰のことでも差別なく愛しましたよ、なにも不思議はありません」 (261)
H-31  満子は教会の奥様たちとしやべるのは、少し肩が張つて気がつまるのだ。
 彼女は妹とちがつて、基督教はおろかいかなる宗教にも没入出来ぬ――あまりにも現実主義者だつた。
 といつて、それが冷たく磨ぎすまされた理智的な現実主義者というわけでは、けつしてなかつた。
 要するに、卑俗な底の浅い低級なリアリストとでも言う人だつた。
 今日式場で牧師が綱子の死を弔らつて、
 「基督教徒には死は勝利を意味するのです、この人生を神への道に従つて正しく歩み、かくしてやがて神のみもとに帰るのです、これぞ最上の光栄であります。
 と言つた言葉が、満子にはわからない。
 彼女は(死ぬ者貧乏)という俗な言葉を思い浮べていた。
 妹は女としてのもつとも幸運なよき良人を持ち、物質にも恵まれて心ゆたかに生活し、一子をもうけ、良人の死後も生活に支障を来さず、悠々と生活していられたのだ。
 それが、まだそれほどの年齢でもないのに、急逝してしまつてほんとにつまらない、あの人には大損だ――と考えている。[sic]
 いままでは、良人運も悪く生活も困ることがあり、たびたび借金を妹の家へ申し込んで不義理をしたりして、仲よくつきあうこともなかつた姉の私はともかく妹より生きのびた……
 (いのちあつてのものだね)――などと告別式の間、讃美歌の歌声をぼんやり聞きながら満子は考えていたのだ。 (268-269)
H-32  「そう、あのひとも基督教にかたまつて少し変人でしたよ、この世には神さまさえあれば姉妹も何もいらないとばかり――たつた一人の姉の私なぞと、あまりゆききもしなかつたけれど――ああして亡くなつてみるとやはり血のつづく私でもなければ、まだお坊ちやんの透のことを親身で思う者はありませんよ、ねえ」 (270)
H-33  「そう、その費用なんかも遠慮なく言つて下さい、母もあなたへの疑いが晴れた時も、それも気にしていたようです……母は折角あなたに会いたがつていたのに――あなたのたずねて来た日、この家の中に倒れていたというのは――何か……これが神の摂理というものかな――」
 透は母ほど全身的には信仰の境地には浸れぬが、母の死と登世を結びつけて神秘感をそこに結びつけてみたくなるのだ。 (274)
H-34  階上の綱子の元の部屋の遺骨の棚の前に置いてある引き伸しの写真の黒い額ぶちのなかから、綱子の眼が登世を見つめているようで身がすくんだ。
 (あなたは、汚れた女になつていたのね、透は知らない、可哀そうに……私は知つてます、天に昇つて地上のあなたの秘密を知りましたよ)
 と言つている気がした。 (284-285)
H-35  (E-95)  「そうか――やつぱり、ぼくが疑つていたようなんだね!」
洋吉の吐くような声だつた。
神 の 鞭 〔最終章タイトル〕

洋吉が疑つていたという言葉は、登世の胸を刺した。 (290-291)
E-96  どれほど時間が経つたか――沈黙のままこの姉弟はじつと動かずに居た。
 ――天知る地知る……弟もあざむき切れぬのは天のくだした罰だと、登世は神の見えざる鞭のぴゅうんと虚空を打つてわが身を打つのを知つた。 (292)
E-97  登世はそのじぶんにいま下る神の鞭に思い切り打たれて泣いて、おのれを浄め再生したかつた。 (299)



I.    姉・成長
I-1  (A-47)  「それともあたしの手許へ置くのは不服だつていうの、そんならいつでも洋ちやん返すわよ、何もあたしだつてすき好んで病人を引取ろうつてんじやないもの……そりやあたしお互に困つた境遇だから助け合おうと思つてたし、洋ちやんのとこへだつてその意味でちよくちよく見舞に行つてるうちに、なんだか病気のくせに気ばかりあせつてる若い洋ちやんが可哀想になつちまつて、もう一人姉さんが出来たような気持にさせちやつたのがあやまちかも知れないけれど、あたし男にはかつえていないから、あの病人を相手にエロなことなんかしちやいないわよ」 (197)
I-2  エミはとうとう説き来り彼女の意のあるところを登世に通じた。
 それをうなだれて聞いていた登世は、いまエミの方がじぶんより早く、生活苦やそ;のための人間汚辱をなめて、はるかに老成しているのを発見した気がした。 (200)
I-3  若くてむちやくちやの苦労を積んで来て、登世よりはるかにわけ知りの女ぶつているエミもさすがに若いだけに、その想像は甘くいささか観念的だつた。 (201)
I-4  あけすけにそれ〔「じぶんの汚辱の歴史」〕を告白するほど登世はすれても居ず、人を呑んでかかることも出来ぬ――何をしてもまだ処女の心だつた。 (201)
I-5  「エミ、もう洋吉には肉親愛より……他人の女性の愛情が必要になつたのだわ……わかつたわ」 (202)
I-6  「いや、あなたが悪いんじやない、母がいい年齢をして狭量でした、やはり女の心のせまさだつたんでしよう〔……〕」 (208)
I-7  登世はひとたび男に接して、かえつて男の鑑別を知つたようだつた。 (209)
I-8  「透さん、わたくしきつと今日お母さまにおめにかかりに伺いますから――あなた遅くならないうち御出勤なさい、もう次の電車が来ますわ」
 彼女は年齢上の透の姉のような気持で、こう言い彼を歩廊へ送り出す。 (210)
I-9  だが、どんな表情で岩橋夫人に会うじぶんであろう、かつて此家に日曜日ごとに来た娘とは内面的に大きなちがいのある女となつているのに……。 (210)
I-10  透はおろおろしている。
 登世はいちどあの高慢な金で女を自由にする冷血なほどの男を知つてから――この透のような男が貴く有難く思えていただけに――なにか透に今朝清瀬の駅で出会つた時から、じぶんより年齢下の弟のような気持になつていたのだ。
 姉の切ない愛情に馴れ切つて、わがままな我意の強い弟の洋吉より、もつと素直に遠慮がちの他人の透青年にいじらしさを覚えていた登世だつた。 (222)
I-11  もうここへ以前来た娘とちがう女となつているとも知らぬ彼に…… (223)
I-12  登世は何もかも過去の忘却のためにも、棲居も職場も置き換えるのを、むしろもつけの幸いと望んだ――もう、これからは誰のためより、じぶん自身の幸福と安定を考えるべきだと――登世は弟のことから、はつきり悟つていた。 (228)
I-13  ――登世はおかげでいろいろな男の面を知つた。あの富める学生の青年を、その番頭の藤助を……そしていままたこの宮川を……。
 それらの男の世界とかけ離れた透を……そして片恋に終つた青柳一彦を……。
 登世は女として心のうちに十もいちどに年を取つたような経験をした。 (237)
I-14  写真のおもかげは何も言うはずはない。ただ、しずかに此の現世で見知らなかつた娘が、わがきものを着る姿を見おろして居るようだつた。
 登世はそのきものにふさわしい帯を締めて、そして階段を降りた。綱子の病床を見舞おうと、発病以来臨時に病室に当てられてしまつた食堂へ、そつと入ろうとすると、そこに透が彼女の姿を見詰めて驚いたように、
 「ああ、ぼく吃驚させられた。まるで亡つた姉さんが生き返つて二階から降りて来たようなんだもの・・・・・・。実によく似合うなあ、登世さんに――そうすると悠子姉さんにそつくりだ。よく似ている!」
 「まあ、そうでしようか・・・・・・」
 登世はあの部屋の写真でよりそのひとの顔は知らぬが、あの智的に澄んだいかにも育ちのよい品のあるいわゆる(お嬢さん)と、じぶんなどが相似の点が少しはあつても、そつくりなどとはとても思えなかつた。
 それは透の亡き姉への感傷的の追憶がさせる幻想に過ぎないと思つた。 (245-246)
I-15  彼女は透と、病人の綱子についても、それを中心の家の雑事のことについても、兄妹のように親身に心配仕合い相談に乗つた。
 時には年齢上の透の姉のように――まつたく彼の亡き姉の身代りのような気持にさえなつた。 (247)
I-16  じぶんを悠子と、綱子がまちがえたことが、その死を早める動機となつた気がした。 
 「わたくしが、悠子さんのきものなどを着て、奥様の枕もとに行つたのがいけなかつたのですわ・・・・・・すみません」
 透は詫びる彼女の背を撫でるようにして、
 「ぼくはそうはけつして思わない。あなたの姿を亡くなつた姉さんと思いまちがつて、天国で再会したと信じて、安らかに――死をさえ喜び迎えて息を引きとつた母はむしろ仕合せだつたと思つています」
 ――そうであろうか?
 登世は――綱子に彼女の愛した長女の身代りになつて現れたことが透の言うようなら、それもよいが――だが清浄な処女として逝つた悠子の身代りのじぶんの汚れた身を思うと恥入つた。
 彼女は階上の悠子の部屋へ馳け上つて、壁の写真に向い、手を合わせて膝まずき、
 「ゆるして下さい・・・・・・お母様はわたくしをあなたとまちがえて・・・・・・おなくなりになりました」
 そうつぶやきつつ、眼を閉じうなだれているうちに、彼女はわが身が浄まつてゆく気がした。
 ――もし綱子の信じていたように、人間の死後の霊魂が存在するなら、その悠子の霊魂がじぶんに乗り移つて、この登世の過去を抹殺して、新しい新しい身体にしてほしかつた。 (252-253)
I-17  (H-32)  「そう、あのひとも基督教にかたまつて少し変人でしたよ、この世には神さまさえあれば姉妹も何もいらないとばかり――たつた一人の姉の私なぞと、あまりゆききもしなかつたけれど――ああして亡くなつてみるとやはり血のつづく私でもなければ、まだお坊ちやんの透のことを親身で思う者はありませんよ、ねえ」 (270)
I-18  血がつづいた人々にかえつて冷たさを覚えるさびしさは彼を血縁から孤独感を深めた。[sic] (273)
I-19  ここを飛び出して、エミに縋つているうちに、彼はきびしい世の現実の何ものかを知つたのかも知れぬ。 (275)
I-20  「〔……〕姉さん、ぼくはどんなことしても健康になつて世の中に立ち向える男になるよ。そして姉さんに償うんだ……」 (276)
I-21  透は母が彼の傍を離れて数日、この満子や祐造の対立する家の中にあつて以来、すでに今まで知らなかつた、世間に塵まぶれの空気のなかに、悪戦苦闘している経験を身に受けて、俄かに彼の背骨がピンとし大人の男に彼を成長させた感じだつた。 (279)
I-22  祐造がシンデレラとからかつたのは、あのひとたちの勝手な面白半分の想像だと思つたが――透が彼たちの前でそんなにはつきり口にした〔「将来結婚するつもりだと宣言した〕とは、彼女も驚かされた。
 「ぼくも、今まで母があんまり子ども扱いして温室に入れて置かれたのですが、いまはいやでも外に放り出されて、霜にも会うつもりで強い植物になるんです――登世さん、だからぼくはじぶんの意志をはつきりさせたんです、もつつもあなたの了解は得ませんでしたが……」
透も、そう弁解するより仕方なかつた。
だが、たしかに彼は強くなつた――と登世にも思われたが、その強さは、これも向うみずのお坊ちやん育ちが、むやみと夢中でがんばつて強くなりたがつているかたむきがあつた。
 ほんとうの苦労をしない、一足飛びの怖いもの知らずの強がりだつた。
 「そんなこと、軽はずみに仰しやるものではありませんわ……私がそそのかしたようにきつと伯母様方はお思いですし……それに……私は透さんの奥さんになれるような女ではないのですから……」
 登世はこの強がりの透を、年齢上の姉のようにたしなめた。彼女には透がどうしても年齢上に感じられず、年齢下の世間知らずの優しいが、どこか我ままの大きいお坊ちやまに思えるのだ。
 だが、そんな登世の心理は、透には通じない。
 「ばかな卑下や謙遜はつまらんことですよ、ぼくはあなたも、ぼくといつしよに強くなつて貰いたいんだ」 (283-284)
I-23  「姉さんの傷をぼくはあばいたり責めたり出来る弟ではないんだ、ぼくのせいだと思つて辛いんだ、だが姉さん失望しないで下さい、社会にはどんなにひどく傷つけられた女のひとがいるかつてこと、ぼくはエミのことからよく知つたんだ、ぼくはいまでも将来養鶏場へひよつこりエミが訪ねて来たらと考える――けれども、それはぼくの感傷かも知れない、もつとぼくが大人の男のずるさを身につけたら、きつとエゴイズムになつてエミをどうするか――わからない……でも姉さんのことを考えると、ぼくは姉さんから過去を抹消したくなるんだ」
 そういう弟のひどく大人びて来たことに登世は驚かされ――いま弟が姉の秘密をどの程度にもせよ知つてしまつたことから、かえつて気持が解放されると、急にげつそりといままでの秘密をかたくなに守りぬいて居た疲れが出てくるのを感じた。
 だが、やはり何もこの弟の前でものを言う勇気もなく、またもうこれ以上、この場に居るのが堪えられなかつた。
 それは血のつながる肉親の間にかえつて気まずくかもされる羞恥心が烈しく募つたからである。 (292-293)
I-24  「姉さん、恋愛は一切を浄化するつて言うじやないか、透君と恋愛が生じたら過去は忘れて透君に対して再生の姉さんになれない」 (293)
I-25  かつては、このひと〔青柳一彦〕を見の程も知らずに片恋のおもいに焦がれたことなども、遠い返らぬ娘の淡い夢に思われた。
 それほど、登世はここしばらくの間に、ひどく一足飛びに年齢をとつた気がしている。 (294)
I-26  「高井君はいいひとですよ、あのひとの今やつている養鶏場はきつと洋吉君の再生の職場になると思つて喜んでいるんです」 (295)


J.  その他、気にいった/なった文章
J-1  全身ぬれたワンピースはぴつたりと肌につき乳のふくらみから腰の線をくつきりと露骨に裸のように示し、両脚に裾はからんでいた。
J-2  そして、登世が目立つ美貌だのに、それがばかにかた苦しく真面目なので、さらに男が気をもんでなんとかからかつてみたくもさらに手ごたえがないので仕方なく(女史)というニックネームを奉つて腹いせをせめてしているようでもあった。 (34)
J-3  小父さんはじぶんの若い頃、袋物の職人の親方にきびしく仕込まれた時代のことからすべて割出している。
 「でも、おまえさん、いまはすつかりちがうんだよ、戦争に敗けてから日本の人はもうみんな我慢だの辛抱だのすることが、ばかばかしくなつたんだよ」 (86)
J-4  その小さいそれこそチャチな店の中に、何が面白いのか、客の男たちは、笑つたりどなつたり女を抱いたり、追かけたりコップを引つくり返してわめいたり、昨日を忘れ、明日を待たないために、眼の前一ときの躁(そう)狂性になつて、神経を麻痺(まひ)させたいように塩のかゝつたハムを食べ、高い酒をこぼしながら飲んでいるようだ。 (189)
J-5  登世は夜更けのそのあたりをうろうろ探し廻つたが、たしかに一度入つたことのあるあの焼鳥屋は消えうせたようになかつた。
 焼鳥屋はここだつたと思われる個所には造作が変つて小さなすしやの店があつた。
 銀座の表通りからこのあたりまで、戦後の東京の店舗の変化はめまぐるしかつた。
 昨日まで中華そばの店だつたのが、忽ちパチンコ屋に早変りしたり、洋品屋の店が俄かに[sic]おしるこ屋になつたり、千変万化のそれこそ世のならいだつたから、あの焼鳥屋がしばらく見ぬまに、小綺麗なすしやに変つても不思議はない。 (193)
J-6  久しぶりで今日会うはずの綱子夫人が、そんな姿であろうとは一秒前まで夢にも思えなかつたのだ。
 青柳一彦の今日が結婚式とは、療養所の門をくぐる時、つゆ知らなかつたと同じように――亡くなつた母がよく何かあつた時の口癖の(一寸先は闇の世の中)という古くさい言葉が今更威力放つて登世には思い出された。
 人生の今日も明日もつねにそれは知らぬ月日なのだ。
 知らぬ月日が人間の前にどういう風に展開するや哀しいことに人間の智力もそれは見通せない。
 その知らぬ月日の一日に、こうした綱子夫人を見たのだ。 (217)
J-7  雨と風の中を新夫妻を乗せた車は走る。
 ぼんやりと――それこそまつたく魂の一瞬ぬけた形で登世は車を風に吹かれつつ見送つた。
 あのひとを恋したり、憧れたり――人並のつもりでいたじぶんが――痛いほどに恥じられた。
 病める人々への美しい献身の生涯を送る夫妻は、じぶんの手の届かぬ高い世界に居るのだ。
 及ばずながら(私も岩橋家のために役立つ女に ・・・・・・)それが今日からのせめてもの生甲斐と思つた。 (243)
J-8  バスを待ちかねて歩き出す登世の顔に、晩秋の風がひりりと当つた。
 空はうす曇つていた。
 (強い女になりたい、強くなりたい!)
 登世は歯を喰いしばるようにして心で叫んだ。
 弱かつた過去、うじうじしていた過去、いつもうつむいて考えて悩んで、ふんぎりの付かなかつたじぶん。
 嘘をつき、その嘘につまずき、はては思い悩んであと先見ずに男に身をひさぎ、しかもそれにも図太く徹底し切れず、あとで肉を噛むほど後悔して、その秘密ゆえに人の顔色におびえ、眼の色におじけおののくおのれの意気地なさ!
 登世はそのじぶんにいま下る神の鞭に思い切り打たれて泣いて、おのれを浄め再生したかつた。
 ああ、すべてをいさぎよく体内の泥を吐きおろすように、秘密を告白出来たら、肩は軽くなり、もう何者にも怖れぬじぶんになり得よう。
 そうなりたいのに、やはり出来ない、一彦の前でも透の前にも……。
 それとも墓の下までおのれのみ知るこの過去の秘密を苦しみ抱いて持つてゆくか?
 いまは、そのどつちか一つの道を選ぶより仕方がなかつた。
 登世は苦しかつた。
 彼女はその苦しさに取つかれて風のおいおい強まるなかをぐんぐん歩いて行つた。
 その彼女のあとからバスが追い越して行つた。
 彼女はとうとう歩き通して岩橋の家の近くまで来てしまつた。
 その時、岩橋の門のまわりをうろついていた男があつた。
 それはあの宮川だつた。アパートの隣人、彼女の秘密を握る男だつた。
 その彼の視線のなかに、いま風の道を通つて来る登世の姿が捕えられた。 (299-300)


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